Craft & Memories

   ~ものづくりと自分の物語∼

旬を知らなかった私が春に食べたいもの

LilBo’s Topic Toss #31

今週のお題「春に食べたいもの」

どもども、春らしく暖かくなり、周りの景色も青々としてきて、心がスッと軽くなっているLilBoです🍃

 

この人生、季節を感じるのは気温や服装、周りの景色からの影響がほとんどでした。

今回のお題は「春に食べたいもの」

旬を感じるテーマですよね。

 

そう、私は去年まで「旬のもの」というものをほとんど知らないまま、30年を送っていたのです。

そんな私が春先に食べたいと思ったもの。

それは、

『 天ぷら付きざるそば 』

※天ぷらは、海老天に、こごみ、なす、アスパラ、シイタケ。
山菜のこごみのほろ苦さ、なすのみずみずしさ、アスパラの食感、シイタケの旨みが、ざるそばとよく合っていました。

 

 

仕事帰りに、道の駅で食べてきました。

天ぷら系の揚げ物が好物の私。

もちろん家でも、去年からいろいろチャレンジしていたりします。

 

そこで気が付いたのは、「あの天ぷらが食べたい」と思って食材を買いにお店に行っても、置いていない時期があるということ。

つまり、食材には旬の時期があって、お店に並ぶ季節も違う。

そんな当たり前のことを、私は最近になってようやく学びました。

 

幼少期は食わず嫌いで、極度の偏食もあり、食べられるものがかなり少なかった私。

それが30代になって、味覚が落ち着いてきたからなのか、野菜も少しずつ食べられるようになってきました。

 

特に山菜は、天ぷらにするとおいしい。

特に春の山菜は旬の季節というのもあり特に旨味がある。

これに気が付いたのは、なかなか大きな発見でした。

もちろん、キノコやその他の野菜も同様においしいのですが、山菜の天ぷらには独特の魅力があります。

 

特に、定食やそばについてくる野菜や山菜の天ぷら。

あれは別格で美味い

そんなことに気が付いてしまった私。

 

さらに最近は食欲があまり湧かなかったこともあり、さっぱり系の軽いものが食べたいなと思っていました。

そこにちょうどよかったのが、

そば+天ぷら

 

そばも、これまでほとんど食べてこなかった料理でしたが、今回はとても美味しくいただきました。

驚いたのが、つゆに入れるワサビとネギの存在

ワサビのピリッとした辛みと、スーッと抜ける香り。

それがそばの後にふわっと残って、なんとも癖になる。

さっぱりしていて、なんておいしいんだろう。

 

山菜や野菜の天ぷらも、みずみずしさやほろ苦さがちょうどよくて、体に染み渡るようなおいしさでした。

 

やっぱり、ご飯が食べられることは幸せだな

そんなことを、しみじみ噛みしめていましたね(笑)

 

この時期ならではの旬の食材を、天ぷらや、もっとシンプルな調理法で味わいたい。

ここ最近、そんなふうに思っています。

 

魚も調達できれば、自分で捌いて、刺身にしたり、焼いて塩を少し振って食べたりしたい。

疲れていたこの頃の状態から、美味しい料理を食べたことで、少し元気が戻ってきました。

希望も、少しだけ湧いてきた気がします。

 

食べるって最高ですね。

どの食材にも、作り手にも、感謝しかありません。

美味しいごはんをありがとう。

ごちそうさまでした🙏

 

「普通」ができないと感じるとき

どもども、最近胃がご飯を受け付けず、ポタージュ生活をしているLilBoです。

 

昔からですが、新しい環境、新しいことというのは、私にとってかなり難関です。 

ルールや人間関係、環境に慣れるまでに、人の何倍もの時間を要してきました。 

現在も、やっと就いた仕事で問題も起こり、仕事の習得にも人より時間がかかっています。 

 

今日は少し弱音を吐く回ですので、飛ばしてもらって構いません。 

 

最近は、元同僚、現職で言うと1年先輩の人に仕事を教わっています。 

質問もしやすく、変に距離を詰めたり、圧をかけてくることもありません。 

仕事の指導も丁寧で、その場その場で必要なことを教え、その後ひと段落してからも振り返りで話してくれます。 

 

しかし、悲しいことに、私にはその指導の半分強が理解できていません。 

 

今の仕事はトラックでの運輸業で、手積み・手おろしによる、機械を使わない人力での作業になります。 

パレットという正方形のすのこ状の台に乗った荷物、つまり箱がトラックの荷台後ろに並べられます。 

それをパレットから荷台の中に、人力でぎっちり詰めていく。 

その日の荷物を詰め込んだら、次は卸先の倉庫まで運搬します。 

そして倉庫では、そこにあるパレットへ荷台から箱を移動させて積んでいきます。 

この荷台からパレットへの作業が大変で、その倉庫によっては高さ、つまり箱の段数のルールがあります。 

 

商品によって積み方も違います。 

40種の荷を運んでいれば、40種のパレットへの乗せ方がある。 

 

私は、ここでつまずいているのです。 

 

ルールとしてマニュアルがあれば対応はできるのですが、基本はありません。 

口頭での説明になります。 

もちろん、荷下ろしに使える時間も決まっているため、大急ぎでパレットに移動させます。 

 

その際に指導員から、 

「この商品は個数が100で12まわしだから、何段になって、何個余りができるのか? そして何段で組み替えて、余りは見やすいように配置しなければならないよね。どうする?」 

と、作業している中で問われます。 

 

基本、その場で脳内で考えることがほぼできない特性を持つ私。 

考えれば手が止まりかけ、手を動かせば何も考えられない。 

 

さらに考えている最中、追い打ちをかけるかのように言われます。 

「ここでパッと分からないと早さが身に付かないんだ。100あって12まわしだから○○で○○余って、余りは見やすいようにこう積んで。でもこんな積み方もあるから、その時々なんだけど、それも最初の時点でぱっと浮かばないと」 

 

情報が多い。 

 

計算をその場で言われても理解できない。 

 

情報が多すぎて、途中の話を覚えていられない。 

「今この時点で、まだ計算や表を見ないと、何段の何個余りでどう組むのか浮かばないので、私の場合は暗記していくしかないですね……」 

と言えば、 

「え? 暗記する必要ないでしょ。その場で計算すればいいし、完全に覚えなくてもその時々で臨機応変に対応すればいい」 

そう返ってくるんです。 

 

これが普通なんだなと実感しますね。 

私にはできないこと。 

ずっとずっと、幼少期から苦しんできたこと。 

 

だから誰よりも、その場ではなく、家に帰ってからなどのフリータイムでの努力が必要でした。 

きっと同僚も、前職では私が他の人と同じように仕事をしていたから、そんな苦労をしているとは思っていないんだなと感じました。 

前職も数年間、休みの日も帰ってからも、仕事について振り返り、イメトレで作業方法を身に着け、イレギュラーに対処できるように様々な事例を調べては暗記をしてきました。 

 

そのおかげで、問題が起きても暗記した中から導き出せたし、基礎を身に着け、必要な計算や数字を暗記したからこそ、他の同僚や先輩後輩と共に仕事ができてきました。 

最初の数年は、夢でも仕事をしてうなされるくらいの苦労はしていたと思います。 

 

やっぱり、「普通」を突き付けられると、自分の理解の難しさに嫌気がさします。 

 

今までは幼少期の影響もあって、自分が未熟で、理解能力が乏しいんだと思ってきました。 

これから経験を積めば、この普通がわかって、他の人が感じていること、できていることが、私にもできるのだと。 

 

でもASDの診断以降は、これが個性であって私の標準。 

この個性は改善ではなく、別の方法で補うことが必要。 

そう知ってしまったら、「普通」を求められることがとても苦痛で、儚い夢のように感じるようになりました。 

 

かといって、聞く先々でできないことを「ASDだから」と言うのは、ただの言い訳でしかないのかなと……。 

 

それに、私を理解しようとしてくれた兄でさえ、ASDについては「さほど苦労はないでしょ」という認識でした。 

確かに異常者とかではないものの、それなりにできない部分ははっきりしています。 

それを「さほど苦労しないこと」とされるのは、少し違うのかなと。 

 

高所恐怖症の人に、 

「怖いだけでしょ。手足は動くから簡単に登れるよね」 

と言っているようなものかなと、私は感じています。 

 

理解者の兄でさえそう感じてしまうのなら、関係の浅い周りの人はなおさら、 

「ASDで○○の特徴があるんです」 

なんて言ったら、極端な反応になるのではないかと思っています。 

「障害持ちだ」 

「できないことが多すぎる関わりにくく使いにくい人間」 

もしくは、 

「なにそれ? でもそんなに酷いものじゃないでしょ」 

「ちょっと苦手な程度でしょ、気持ちや努力で何とかなるでしょ」 

きっと、このどちらかになってしまうのかなと。 

 

そして余程、身近で大切な人などが該当しない場合は、ASDやADHDと言われても詳しいことを調べることは少ないと思うんです。 

だからこそ、どこかで聞いたことのある浅い情報が、そのまますべての印象になってしまう。 

 

我が親も打ち明けた当初、診断結果の説明書を渡しましたが、結局はさほど読まず。 

どこかで仕入れた昔の情報で、今の私のことを語っています。 

それが間違いだよ、もっと○○だよと説明しても、軽くあしらわれる。 

「心が弱いから、未熟だから」と。 

仕事に関しても、ASDのことは隠せと言われます。 

「障がい者として扱われるだけ」 

「普通の人として働いてほしい。きっとそれの方が楽で幸せ」 

最後の言葉は、私にとっては不快に感じてしまいます。 

 

何をもって幸せというのか。 

こんな特性を持つ私は、表に出したくない存在なのか。 

ぎゅっと胸が締め付けられます。 

 

私は誰からなら理解してもらえるのでしょうか。 

 

みんなが求める一般的・普通がわからず、それに近づくこともできず、打ちひしがれる日々です。 

 

最近うまくいかなかった人間関係も、もしかしたらこの“理解の速度の違い”が原因のひとつだったのかもしれません。 

なぜ普通にできないのか。 

なぜ理解が遅れているのか。 

そう感じさせてしまっていたのかなとも思います。 

 

その点では申し訳ないとも思いますし、どうすればその“成長してほしい”という思いに応えられたのか、今でも考えてしまいます。 

 

そんなことを思いながらも時間は過ぎていきます。 

働かなければ、生きる資金も賄えない。 

人とかかわらなければ、仕事も選べない。 

苦手だと言いつつも、逃げることはできませんね。 

結局は向き合って、やっていくしかない。 

苦痛の時間が長くかかっても、その先がきっと楽になることを願って、やっていくしかない。 

 

あぁ、書いていて改めて思いました。 

 

仕方がないって思うしかないですね(笑) 

これが私らしさだし、私にとっての普通なんだと思います。 

普通なんてそもそもなければ、あったとしても理解できないことなら、あきらめて出来ることをするしかない。 

いつかは、理解してくれる人も現れるでしょう。 

そう信じるしかないのかなって。