
どもども、最近胃がご飯を受け付けず、ポタージュ生活をしているLilBoです。
昔からですが、新しい環境、新しいことというのは、私にとってかなり難関です。
ルールや人間関係、環境に慣れるまでに、人の何倍もの時間を要してきました。
現在も、やっと就いた仕事で問題も起こり、仕事の習得にも人より時間がかかっています。
今日は少し弱音を吐く回ですので、飛ばしてもらって構いません。
最近は、元同僚、現職で言うと1年先輩の人に仕事を教わっています。
質問もしやすく、変に距離を詰めたり、圧をかけてくることもありません。
仕事の指導も丁寧で、その場その場で必要なことを教え、その後ひと段落してからも振り返りで話してくれます。
しかし、悲しいことに、私にはその指導の半分強が理解できていません。
今の仕事はトラックでの運輸業で、手積み・手おろしによる、機械を使わない人力での作業になります。
パレットという正方形のすのこ状の台に乗った荷物、つまり箱がトラックの荷台後ろに並べられます。
それをパレットから荷台の中に、人力でぎっちり詰めていく。
その日の荷物を詰め込んだら、次は卸先の倉庫まで運搬します。
そして倉庫では、そこにあるパレットへ荷台から箱を移動させて積んでいきます。
この荷台からパレットへの作業が大変で、その倉庫によっては高さ、つまり箱の段数のルールがあります。
商品によって積み方も違います。
40種の荷を運んでいれば、40種のパレットへの乗せ方がある。
私は、ここでつまずいているのです。
ルールとしてマニュアルがあれば対応はできるのですが、基本はありません。
口頭での説明になります。
もちろん、荷下ろしに使える時間も決まっているため、大急ぎでパレットに移動させます。
その際に指導員から、
「この商品は個数が100で12まわしだから、何段になって、何個余りができるのか? そして何段で組み替えて、余りは見やすいように配置しなければならないよね。どうする?」
と、作業している中で問われます。
基本、その場で脳内で考えることがほぼできない特性を持つ私。
考えれば手が止まりかけ、手を動かせば何も考えられない。
さらに考えている最中、追い打ちをかけるかのように言われます。
「ここでパッと分からないと早さが身に付かないんだ。100あって12まわしだから○○で○○余って、余りは見やすいようにこう積んで。でもこんな積み方もあるから、その時々なんだけど、それも最初の時点でぱっと浮かばないと」
情報が多い。
計算をその場で言われても理解できない。
情報が多すぎて、途中の話を覚えていられない。
「今この時点で、まだ計算や表を見ないと、何段の何個余りでどう組むのか浮かばないので、私の場合は暗記していくしかないですね……」
と言えば、
「え? 暗記する必要ないでしょ。その場で計算すればいいし、完全に覚えなくてもその時々で臨機応変に対応すればいい」
そう返ってくるんです。
これが普通なんだなと実感しますね。
私にはできないこと。
ずっとずっと、幼少期から苦しんできたこと。
だから誰よりも、その場ではなく、家に帰ってからなどのフリータイムでの努力が必要でした。
きっと同僚も、前職では私が他の人と同じように仕事をしていたから、そんな苦労をしているとは思っていないんだなと感じました。
前職も数年間、休みの日も帰ってからも、仕事について振り返り、イメトレで作業方法を身に着け、イレギュラーに対処できるように様々な事例を調べては暗記をしてきました。
そのおかげで、問題が起きても暗記した中から導き出せたし、基礎を身に着け、必要な計算や数字を暗記したからこそ、他の同僚や先輩後輩と共に仕事ができてきました。
最初の数年は、夢でも仕事をしてうなされるくらいの苦労はしていたと思います。
やっぱり、「普通」を突き付けられると、自分の理解の難しさに嫌気がさします。
今までは幼少期の影響もあって、自分が未熟で、理解能力が乏しいんだと思ってきました。
これから経験を積めば、この普通がわかって、他の人が感じていること、できていることが、私にもできるのだと。
でもASDの診断以降は、これが個性であって私の標準。
この個性は改善ではなく、別の方法で補うことが必要。
そう知ってしまったら、「普通」を求められることがとても苦痛で、儚い夢のように感じるようになりました。
かといって、聞く先々でできないことを「ASDだから」と言うのは、ただの言い訳でしかないのかなと……。
それに、私を理解しようとしてくれた兄でさえ、ASDについては「さほど苦労はないでしょ」という認識でした。
確かに異常者とかではないものの、それなりにできない部分ははっきりしています。
それを「さほど苦労しないこと」とされるのは、少し違うのかなと。
高所恐怖症の人に、
「怖いだけでしょ。手足は動くから簡単に登れるよね」
と言っているようなものかなと、私は感じています。
理解者の兄でさえそう感じてしまうのなら、関係の浅い周りの人はなおさら、
「ASDで○○の特徴があるんです」
なんて言ったら、極端な反応になるのではないかと思っています。
「障害持ちだ」
「できないことが多すぎる関わりにくく使いにくい人間」
もしくは、
「なにそれ? でもそんなに酷いものじゃないでしょ」
「ちょっと苦手な程度でしょ、気持ちや努力で何とかなるでしょ」
きっと、このどちらかになってしまうのかなと。
そして余程、身近で大切な人などが該当しない場合は、ASDやADHDと言われても詳しいことを調べることは少ないと思うんです。
だからこそ、どこかで聞いたことのある浅い情報が、そのまますべての印象になってしまう。
我が親も打ち明けた当初、診断結果の説明書を渡しましたが、結局はさほど読まず。
どこかで仕入れた昔の情報で、今の私のことを語っています。
それが間違いだよ、もっと○○だよと説明しても、軽くあしらわれる。
「心が弱いから、未熟だから」と。
仕事に関しても、ASDのことは隠せと言われます。
「障がい者として扱われるだけ」
「普通の人として働いてほしい。きっとそれの方が楽で幸せ」
最後の言葉は、私にとっては不快に感じてしまいます。
何をもって幸せというのか。
こんな特性を持つ私は、表に出したくない存在なのか。
ぎゅっと胸が締め付けられます。
私は誰からなら理解してもらえるのでしょうか。
みんなが求める一般的・普通がわからず、それに近づくこともできず、打ちひしがれる日々です。
最近うまくいかなかった人間関係も、もしかしたらこの“理解の速度の違い”が原因のひとつだったのかもしれません。
なぜ普通にできないのか。
なぜ理解が遅れているのか。
そう感じさせてしまっていたのかなとも思います。
その点では申し訳ないとも思いますし、どうすればその“成長してほしい”という思いに応えられたのか、今でも考えてしまいます。
そんなことを思いながらも時間は過ぎていきます。
働かなければ、生きる資金も賄えない。
人とかかわらなければ、仕事も選べない。
苦手だと言いつつも、逃げることはできませんね。
結局は向き合って、やっていくしかない。
苦痛の時間が長くかかっても、その先がきっと楽になることを願って、やっていくしかない。
あぁ、書いていて改めて思いました。
仕方がないって思うしかないですね(笑)
これが私らしさだし、私にとっての普通なんだと思います。
普通なんてそもそもなければ、あったとしても理解できないことなら、あきらめて出来ることをするしかない。
いつかは、理解してくれる人も現れるでしょう。
そう信じるしかないのかなって。

